蛍の庭 3 次の日になっても、その次の日になっても、先輩は絵を描く作業に取り掛からなかった。 「…いつになったら描くんですか?」とぼくは尋ねた。 「せっかちだねー、キミも」と先輩は答える。「そんなに短気じゃ世の中渡っていけないよ。人生急がば回れ、だよ」 「『だよ』って…」 ぼくは思わず苦笑する。 「ていうか、前から聞きたかったんですけど、そもそも何でぼくなんですか?」 「え、何が?」 「だから、絵のモデルですよ」とぼくは言う。「別にそんなに仲が良かったわけでもないのに、なんでぼくなんかに声かけたんですか? もっと同級生とかの方がやりやすかっただろうし」 「…イヤだった?」 「え」 「イヤだったんなら、そう言ってくれればよかったのに」 先輩の声が、一瞬だけ淋しげに聞こえたような気がした。 「…あ、いや別に、そういう意味じゃなくて、その」 思わず、うろたえてしまう。 そういう風に答えられるとは、思わなかったから。 「…わたしさ、あんまり友達いないんだよね、ぶっちゃけ」と先輩は言う。「…陸上部もほとんど行ってなかったし、美術部はそもそも同輩がいなかったから」 「ひとりだけだったんですか?」 「後輩はいたけどね。まぁ、そんな感じ」と先輩は言って、静かに苦笑する。「だから、色々と声かけにくかったのはあったんだよね。だったらいっそのこと、陸上部でおんなじ幽霊部員のキミ誘った方が何かと声かけやすいかなー、って思って。日程とかも合うだろうし、それに…」 「それに?」 「…キミとは、一回話してみたかったし」 「へ?」 ぼくと、話を? 「…まぁ、いろいろあるのよ」 「あるんですか」 とにかくそういうことらしかった。 ぼくはため息をついて、ふと、窓の方を眺めやった。 開けた窓の外から、セミの鳴く声が聞こえてくる。晴れ晴れとした青空を、飛行船が一機のんびりと通過して行くのが見える。飛行船とか、なんかもうずいぶん久しぶりに見た気がする。ときおり入ってくる風が涼しくて心地よい。 なんというか、平和だと思う。 「…? どうかした?」と、不意に先輩が聞く。 「あ、え? ぼくですか?」 「うん」と先輩は頷く。「なんか、どっか行っちゃってたから」 「あ、すいません」 ぼくはそう言って、いすにもたれ込みがちだった姿勢をあわてて正す。 「うーん…まぁいいや。よし」 「はい?」 先輩はゆっくりと立ち上がって、んー、と大きく伸びをする。 「そろそろ休憩にしない? 君も疲れたでしょ」と先輩は言って、白衣を脱ぎ始める。「ていうか私もちょっと眠かったんだよねー、お昼でも食べよ」 「あ、そうだ、先輩!」 ドアから部屋を出ようとした先輩を、ぼくはあわてて引きとめる。 「んっ? なにかな?」 「…あ、いや、その、なんて言うか」 「なになに」 「そ、そんな大事なことでもないんですけど」とぼくは口ごもる。 「だからなにさ」と先輩はぼくを急かす。 「いや、その、だから…」 少しだけ、思いとどまってから、 「―――絵、見たいなと思って」 *** 「キミも物好きだねぇ……えぇっと、確かここらへんに…」 先輩は、美術準備室の倉庫の中でごそごそとやっている。倉庫の中は狭いので、ぼくは半開きになったドアの前で先輩を待っている。 「…お。あったあった、ここらへんだ」と先輩の声がして、こちら側にキャンパスが投げ込まれる。 ぼくは絵を拾って、座りながらそれを眺めた。静物画だった。テーブルの上に、果物の乗った皿が置いてある様子が描かれている。上手いなぁと思って日付を見たら、今からちょうど2年前くらいに描かれたものであることが分かった。中1で、ここまでのレベルのを描いていたのかと思う。 そうしている間にも、またキャンパスやボードやスケッチブックなどがどんどんこちらの方に投げ込まれてくる。そんな乱暴な扱いで本当にいいんだろうか。 「額縁とかには入れないんですか?」とぼくは言う。 「あっはは、練習画にそんなことしてたら額がいくつあっても足りないって」 「…え、これぜんぶ練習のですか?」 「うん。適当に一人で描き溜めてたやつだよ」と先輩は言う。「ラフスケッチだとか色までつけたヤツだとか色々あるけど。多すぎて家に置けないから、先生に見て貰ったりとかして預かってもらってるの」 ぼくは持っていた静物画をひとまず横に置き、他の作品にも目を通す。 公園のベンチで寝ている猫の絵。街を歩く人々の絵。ネオンサインが輝く夜の街の遠景の絵。胸像の絵。どこかの部屋の絵。夕暮れの教室の絵。木漏れ日が美しい森の中の絵。 水彩画や油絵や鉛筆画など、媒体は様々だ。 「…ていうか、すごい数ですね」 「そりゃそうだよ、今まで描いた分全部あるもの」と先輩は言う。「あ、そうだ。これが入賞した絵」 「え、入賞?」 ぼくがそう言ったところで、先輩はやっと倉庫から出てくる。そして、腕に抱えていた一枚の絵をぼくの方に手渡した。額縁入りだ。 「……わぁ」 蛍だった。 あたりは夜で、夏草の生える野原に細い用水路が流れている。その水門のたまりの上を、無数の蛍が飛んでいた。蛍の光がうっすらと水面に映り、ゆらゆらときらめいていた。 見た瞬間、心を鷲掴みにされたような気がした。 感動のあまり、鳥肌が立った。 「…せ、先輩が描いたんですか? これ」 「そうだよ」と先輩はうなづく。「今年の…7月の初めくらいかな。わざわざ田舎の方まで遊びに行って描いてきたの。おかげで期末のほうは散々だったけどね」 「………はぁ」 思わず、ため息が漏れた。 絵のことなんてあまりよく知らないぼくでも、十分に分かった。 すごすぎる。 言葉が、出てこなかった。 ぼくが呆然と絵を見詰めていると、やがて先輩は、ぼくの隣に静かに腰掛けた。 「…蛍って、なんで光るか知ってる?」 「え?」 急に質問されて、驚いた。 ぼくはうろたえながらも、必死に考えをめぐらせる。 「…えと、求愛行動、ですか?」 「そ」と先輩はうなづく。「オスはメスを求めて交尾をするために、こうして必死になって光りながら、メスのいる場所を飛び回るの」 先輩は自分の絵を見ながら、淡々とした口調で語る。ぼくは先輩の話を黙って聞いている。 「蛍の寿命は短くて、長くても10日くらいしか生きられないの。だから、蛍は自分の寿命が来る前までに交尾をしないといけない。汚れた川も増えて、今はもう見られる場所も少なくなってきて、蛍の住める場所自体も少なくなってきてるから、蛍の数自体も少なくなってるし……だから、自分のその命が尽きるまで、蛍は、ずっと必死に光り続けるの」 「………」 住む場所を狭められ、それでも蛍は、自分が生き続けるために、必死に光り続ける。 まるで、自分の命に抵抗するかのように。そして、悲しいほど儚げに。 蛍は、光り続ける。 「………」 なにかが一瞬、ぼくの頭を頭をよぎった。でも、何が通りすぎたのかは自分でも分からなかった。 そしてぼくは、たまりの上を飛ぶ蛍を、ずっとずっと眺め続けていた。 |