蛍の庭 1





「あ、ちょっとキミキミ」
「はい?」
 陸上部の練習からの帰り道、聞き覚えのある声に後ろから呼びかけられた。ぼくはさっきコンビニで購入したばかりのソフトクリームを食べるのをやめて、あわてて後ろを振り向いた。
「…あ、柏木先輩」
「お、やっぱりキミだった」と言って、先輩は嬉しそうに挨拶する。「やほ、奇遇だねぇ」
 先輩は、ぼくと同じ陸上部の部員のひとりで、ひとつ上の中3の女子生徒だ。3年生は基本的に夏休みが終わったら部を引退して、受験勉強にそろそろ精を出さなければいけなくなるので、この夏休みの練習が終わったら、先輩たちの顔を見る機会も少なくなるのかなぁ、と、ほんの少し淋しかったりそうでなかったりしていたところだった。
「奇遇…」とぼくは先輩のセリフを反復する。「…っていうか、先輩もこっち方面だったんでしたっけ、家」
「そだよ。言ってなかったっけ?」
「いやさっぱり」
「…ふーん、そっか」
 先輩はそう言ってひとりで頷き、ぼくの横に並んで一緒に道を歩き始めた。
 夏休みも半ばを過ぎた8月後半。まわりではバカみたいにセミが鳴き、ふと頭上を見上げると、突き抜けるようなさわやかに晴れた青空が広がっていた。さまざまな建物のさらに向こうの山から生えるように、もくもくとドでかい入道雲が浮かんでいた。なんだか漫画の1シーンのようで、もうすっかり夏なんだなぁ、と思わせられるような風景だった。
「…ところで、時に後輩よ」
「はい?」
 先輩が思い出したように急に何か言ったので、ぼくは驚いて視線を空から先輩へと戻した。
「なんですか?」
「物は相談なんだけど…キミって、明日とか暇な人?」
「……明日…」と言って、ぼくは少し考える。「…陸上部を除けば、特に何もなかった気がしますけど」
 夏休みの陸上部の活動は、基本的に一週間で月・水・金の3日。合宿は夏休みが始まった7月21日から27日までの一週間で終わってしまったので、あとは学校での普通の練習日を残すのみだ。
 しかし、もともとぼくはそんなに熱心な陸上部員ではない。普段の学校の部活にも一ヶ月に1回出ればいい方だし、暇のできる夏休みの練習にも今のところほとんど出ていない、というか今日で最初で最後のつもりだ。いわゆる『幽霊部員』というやつだろうか、いちばん厄介で面倒くさい存在なわけだ。他の友人達もそこらへんは察しているらしく、特にぼくに向かって何か言うこともないし、何かしら干渉してきたりもしない。事実、陸上部の名簿の中には僕の名前は含まれていない。
 …というか、そもそも合宿にさえ行かなかったしな、ぼく。
 ビバ幽霊部員。
「…それで、明日になんかあるんですか?」とぼくは先輩に尋ねる。「言っちゃなんですけど、陸上部の練習とか大会とかなら、きっと120%くらいの確率でサボると思いますけど」
「あぁ、いや違う違う」と、先輩は苦笑しながら手のひらを振る。「…んーと、まぁ唐突っちゃ唐突なんだけど、んー…」
「別に何言われても驚かないんで、遠慮しないで言ってくださいよ」とぼくは答える。「ぼくに手伝えることなら、何だってお手伝いしますよ」
「え、あ、そう?」
 ぼくの言葉に、先輩は瞬間的に顔を輝かせる。
 そして、言う。

「―――あのさ、絵のモデルになってくんない?」


***



 どこからくすねてきたのか分からない特別教室のマスターキーで美術室の鍵を開け、ガラガラとドアを開けて中に入る。
 教室の中は油絵具の独特のムッとした匂いが充満し、6人掛けの工作用テーブルがきれいに整頓されてずらりと並べられていた。窓からは運動系の部活の面々がランニングをしたりボールを追いかけたりしており、ずいぶん前に引かれたと思われる白いラインが、今やほとんど消えかかりながらぼんやりとグラウンドに楕円を描いていた。
「…先輩って、美術部だったんですか?」
 教室内を見渡しながら、ぼくは先輩に言った。
「うん、そうだよ」と先輩は頷きながら、テーブルの方から椅子を持ってきたり、キャンパスを置くスタンド台を組み立て始めたりしていた。「…言ってなかったっけ?」
「いや全然」
「…ふーん、そっか」と先輩は頷く。「まぁいいや、ここらへん適当に座ってて」
 先輩はそう言って適当な椅子にぼくを座らせると、ぶらぶらと美術準備室の方に行ってしまった。ぼくが椅子に座ってぼんやりと待っていると、やがて両手にキャンパスと絵具やらなにやらを抱えて、白衣に着がえた先輩が戻ってきた。
「…これから手術でもするんですか?」
「まさかぁ」と先輩は苦笑する。「服を汚さないためだよ。こういうのって知らない?」
「いやまったく」
「…そっか、まぁいいけど」
 先輩は呟きながら、まだ張り替えたばかりの真っ白いキャンパスをスタンドの上に置いて、それから後ろの椅子を引いてどっかと腰を下ろす。そしてすらりと長い足をゆったりと組み、膝の上に頬杖をついてぼくをじっと見つめ始めた。
「………」
「………」
 じぃぃー。
 …ん、なんだこれは。
「……………」
「……………あ、あの」
「んっ?」
「…あの、描かないんですか?」
「うん、まだ描かないよ」と先輩は頷く。「いきなり描くと失敗するからね、こうしてじっと観察して、観察して、観察して、それから描くの」
「へぇ…そういうもんですか」
「そうしたもんです」
 なるほど、とぼくは納得する。

 ―――そして、
「………」
「………」
「……………」
「……………あ、あの…」
「んっ?」
「…あ、いや、その…」とぼくは口ごもる。「…なんて言うか、そんなにじっと見つめられてると…」
「感じちゃう?」
「……蹴りますよ」とぼくは言う。「そうじゃなくて、その、息苦しいっていうか…」
「だって、それを含めてのモデルだもん」
 そうだったのかよ。
「いや、そういうのまったく聞いてないんですが」
「…え、わりとそういうのって常識じゃん?」
「いやこれっぽっちも」
「…んー、そんなもん…?」と先輩は首をかしげる。「まぁいいじゃん、暇なんでしょ?」
「それとこれとは話が別ですよ」
「気のせい気のせい」
 そう言って、先輩はけらけらと笑う。

 頭、痛くなりそうだった。






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