蛍の庭 0





「―――先輩は、どうして美術部に入ったんですか?」
 窓の外から、淡い橙色の西日が差し込んでいる。
 美術室の中には、ぼくと先輩しかいない。ぼくは椅子に腰掛け、そこから2mくらい離れたところに、ぼくと向かい合うようにしながら、白衣を着てキャンパスに向かう先輩がいた。
 先輩は手を止めて、綺麗な長い黒髪を掻きあげながら、考える。
「……うーん、なんでだろうなぁ…」と、しばらくした後に先輩は呟く。「ただ単純に、絵描くのが好きだからだと思うよ、うん、たぶん」
「たぶん、ですか?」
「うん、たぶん」と先輩は言う。「本当はただ、なんとなく入っただけだし」
 そう言って、先輩は自分でうんうんと頷く。
「じゃあ、なんで絵を描こうと思ったんですか?」
「…そりゃまた難しい質問だね」と先輩は言う。「…んー、いつだったかなぁ。そうね、最初はただ気まぐれで、なんとなく落書きみたいに描いてただけだったんだけど…、そのうちに、まわりの人が上手い上手いって言ってくれて、それで調子に乗っちゃって…」
「へぇ…」とぼくは頷く。「…あれですね、『なんとかの一つ覚え』って」
「…殴るわよ?」と先輩はドスの効いた声でぼくに言う。「…あ、ちょっと。喋るのはいいけどあんまり動かないで」
「あ、すいません」
 ぼくは先輩に言われて姿勢を正す。
 先輩はまたしばらくじっとぼくを観察したあと、再びコンテの手を動かし始める。そして、ぼくと先輩の会話は止む。


 これは、いつかのぼくと先輩の会話。
 ただ何の目的もなく、ただ何処かの拠り所もなく、ただのめり込む媒体もなく、ただ息つぎをするのに精一杯だった、ぼくの、数少ない思い出だ。
 あの頃のぼくはまだ周りが見えていなくて、がむしゃらに闇の中を突き進んで行くしかなくて、だから、ぼくにはここしか居場所が無くて。だから、それだけでぼくは楽しかった。それだけでぼくは満足だった。だからぼくは、笑っていた。
 あの時の絵は、何処へ行ってしまったんだろう。
 あの時のぼくと先輩の時間は、一体何処へ消えてしまったんだろう?

 そして、ぼくは思い出す。
 あの頃の、ぼくと、先輩の会話を。





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