「ジェフ―――――っ!」


 乱暴にドアが開かれる音がした。
 僕の頭は、砂袋による衝撃で混乱しきっていた。目も半ば閉ざされた状態で、冷静な判断は全然できなかったけれども、その声だけははっきりと判別することができた。
 聞き間違えもしない、何度も聞いた、あいつの声。
「……トニー?」
「うりゃあぁぁぁぁ!」
 トニーが叫び、僕の真上に立っていたグレンが突き飛ばされた。ガラガラと椅子の倒れる音が聞こえ、どったばったとグレンとトニーが激しく乱闘していた。僕の体は、相変わらず動かないままだった。
 でも、どうしてトニーがここにいるんだ?
 ちゃんとグレンたちの部屋を探るように言っておいたのに?
 なぜトニーは、今この場にいるんだ?
「……は、離れろ! ぶち殺すぞっ!」とグレンは怒鳴った。
「絶対放さないぞっ! このやろぉ、このやろぉ!」
「トニー、逃げるんだ早く!」と僕は力の限り叫んだ。実はそう口が動いただけで、声は出ていないんじゃないかと思わせるほど小さなかすれた声だった。体を必死で起こそうと力を込めたが、まるで力が入らなかった。
「いやだよっ!」とトニーは叫んだ。「ジェフは、ジェフは僕が守るんだっ!」
「……ちょっとなにしてるんですか!」
 ちょうどそのとき、大きな声とともに看護婦さんが部屋の中に入ってきて、グレンとトニーの動きは止まった。まさに天の助けだった。
 そうだ、大声を出せばよかったんじゃないか、と僕は思った。そうすれば周りにいる人が怪しんで出てくるじゃないか。簡単なことだったのに、何で思いつかなかったんだろう?
 そう思ってしまうと、ふたたび僕の意識を黒いカーテンのようなものが覆いはじめた。まぶたは重くなり、僕はまた深い闇のそこへと堕ちていった。


「……ジェフ、ジェフ!」
 誰かが僕の肩を揺すっていた。僕がうっすらと目をあけると、目の前にぼんやりとした灰色の物体があった。徐々に輪郭がはっきりしてくると、その灰色は実はその物体の色ではなく、その物体が着ていた服の色で、それはトニーの服だった。僕はトニーに肩を揺さぶられていたのだ。
 そうすると周りの視界もやがてはっきりしてきた。ここはどうやら病院らしく、僕はさっきいたのとは違う病室のベッドに寝かされていた。
「……やぁトニー、おはよう」と僕は言った。メガネをかけ直そうと、自分の目のすぐ前を探ってみたが、どうやらメガネはかけていないようだった。「あれ、僕のメガネは?」
「おはようじゃないよ!」とトニーは怒鳴ったが、周りにいた看護婦さんに「静かに」のジェスチャーをされて声のトーンを落とした。「……もう、本当に死んだのかと思っちゃったよ」
 そうか、と僕は話の前後関係を思い出した。さっきまで僕はグレンたちに暴行を受けていて、そこにトニーが現れて――そこから記憶が飛んでいた。
「そんな簡単には死なないさ」と僕は言った。「……グレンとギャリーは?」
「……二人は、寄宿舎だよ。あれから先生が来て、二人を連れて帰ったんだ。僕は付き添いで残ってるだけ」
 それから僕はじっとトニーの話に耳を傾けていた。
 あれから二人は先生に問い詰められ、ことの顛末を全て白状したらしい。トニーの話を聞くかぎりではほとんど全ての部分が僕の予想通りだった。彼らは今年度、二ヶ月の休学処分が決定したそうだ。
 しかし、実を言えば、僕の推理にも少々欠陥ともいうべき「穴」があったのだ。いくらウィルが「グレンを殴った犯人」と「空き巣犯」の両方をやるのが不可能だといっても、誰かとグルになって(例えば、ボビーなんかと共犯して)犯行を行う事だって可能だったはずだ。そしてそれは、他の誰に対しても言えることだった。
 ただまぁ、僕自身がウィルやボビーを信じたかったのもあったし、だからこそ僕は、グレンにカマをかけるという「大きな賭け」に出たのだった。そして、それは結果的にうまくいったわけだが。
「……あれから何時間ぐらい経ったの?」
「一晩明けたよ」とトニーは言った。窓の外の空は雲に覆われ、本当に寒そうだった。「今はもう夕方だよ。夕日は沈んでないけど……アレから大変だったんだからね。ジェフは頭から血ぃ出して倒れてるし、あれから君ずっと目を覚まさなかったし、メガネも壊れちゃってたんだ」
 トニーは横にあった備え付けのテーブルの上から、太い針金のような物体を手にとって僕に手渡した。近くでよく見てみると、それは確かに僕のメガネのフレームだった。誰かに踏み潰されたようで、もはや原形すらとどめていなかった。
「……じゃあ、ウィルの疑いも晴れたんだね。よかったよかった」
「よくないよ!」
 再びトニーの怒声が響いた。
「僕が、僕がどんなに君のこと心配したことか!」トニーは頬を紅潮させ、目にはうっすらと涙が浮かんでいた。「ホントに、ホントに心配だったんだから……ホントに……」
 トニーは必死で涙を我慢して体をひくつかせていた。
 僕は、手のひらをトニーの頬にそっとあてて、親指でトニーの涙をぬぐってやった。
 僕は静かにため息をついて、それから言った。
「……なんで、来たんだよ?」
「えっ?」
「だって、そうだろ」と僕は言った。「僕は『先生と一緒にグレンたちの部屋を捜索してろ』って言ったじゃないか。理由を言えばちゃんと先生も理解してくれるはずだし、それに、君でも僕についてくることが危険だってこと分かってたはずだろ?」
「……そんなの、関係ないよ」とトニーは僕の言葉をさえぎった。「だってジェフが寄宿舎からいなくなってるのに気付いて、それで僕、心配で……」
「そういう問題じゃないだろ」と僕は言った。「下手すると君もこんな目にあうかもしれなかったんだぞ!?」
 そうだよ。
 なんで僕なんかのために、
 優しくもなくて、いつもからかってばかりの、そんな僕なんかのために。
 嫉妬深くて、独占欲が強くて、そのくせ寂しがり屋で、自分に甘えてて、おまけに汚くて。
 そんな、そんな僕なんかのために。
 なんで君は、いつもそうやって――
「だって、だって……僕、ジェフ大好きだもん!」


「……え」
 今、なんて。
「だって、僕たち親友じゃないかっ! なのに、なんでいつもそうやってジェフは、僕のこと置いてけぼりにして……いつもそうだったじゃないか。だから、だから……」
 そうだ。
 お似合いだとかお似合いじゃないとか、はじめから、そんなんじゃなかったんだ。
 トニーは、始めから僕のほうを向いてくれていたんだ。拒み続けていたのは、僕のほうだったんだ。
「……」
 僕は黙っていた。そこには静寂だけがあった。
 トニーは僕のほうをじっと見つめていた。トニーの吐息の音だけが、僕の耳に入り込むただひとつの音だった。
「……トニー」
「……」
「僕も、トニーのこと大好きだよ」


「……え、えっ、えええ! えっ、マジ?」
 トニーの顔が見る見る赤く染まっていくのが分かった。
「だ、だまされないぞそんなこと言っても! どうせ、どうせまたいつもみたいに『冗談だよ』とか言って、すぐ僕の事からかうつもりなんだろ! 今日は、そうは行かないんだからねっ!?」
「違うよ、本当だよトニー」と僕は笑った。「本当だってば」
 僕がそういうと、やがてトニーは落ち着きを取り戻した。しばらくして、トニーはじっと僕の顔を眺めた。
「……ホントに?」
「本当にだよ」と僕は言った。
「ホントにホント?」
「本当に本当に、本当だよ」
 そこまで言うと、トニーは「……そっか」と呟いて、僕たちの会話はまた途絶えた。そうすると、辺りはまた静寂を取り戻した。
 その空間には僕とトニーの二人だけが存在していた。
 そこで、僕は思わずトニーと目が合った。
 トニーは照れくさそうに笑う。
「……僕も大好きだよ。ジェフ」とトニーは言った。
「あぁ」僕も微笑んで返事をした。
 心のそこから笑うのなんて、何年ぶりだろうと僕は思った。
「ねぇ、もうちょっとここにいてもいい?」とトニーが訊いた。
「いいよ、いつまででも」と僕は言った。
 トニーは笑って、僕も笑った。

 窓の外は、ちょうど雪が舞い始めて、あたりを幻想的に染め上げているところだった。

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