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スノーウッド寄宿舎の外は、あいにくの雪だった。
時刻はもうとっくに門限を過ぎていたが、僕にはこんな寒い中をかいくぐってまでも外に出る理由は微塵もないし、そもそもそんな気は毛頭ないので、ロビーのテーブルに座って宿題のレポートにいそしんでいた。
「ねぇジェフ」
僕の隣の椅子に座っているトニーが僕に尋ねた。
「なんだよ」
「フレミングの法則って何?」
「……左手の中指を電子の方向、人差し指を磁力の方向と考えると、親指の方向に力が働く、っていう法則のことだよ。授業でやっただろ。聞いてなかったの?」
「そのときはちょうど寝てたんだよ」
「……僕の記憶が正しければ、君は物理の時間にはいつも寝てるような気がするけど」
「バレたかっ!」
ばれたとかばれないとかそういう問題ではないのでは、と思う。
トニーのレポートを覗いてみると、想像通り、全くと言っていいほど手がつけられていなかった。
「うーん、じゃあローレンツ力ってなに?」
トニーは僕の不満げな顔を気にもせず、なおも続けた。
「自分で調べなさい」
「そんなの間に合わないよぉ」
ちなみに、レポートの締め切りは明日のホームルームまで。あと残すところ十二時間あまりである。
このレポートが来週の期末テストの成績に関わってくるらしく、それで僕たちは切羽詰りながらもこの面倒な作業をぼちぼち進めているのであった。
トニーはいつもなら、ガウスさんという仲のいい先輩などに手伝ってもらいながら、なんとかギリギリで終わらせたりするのが定番なのだが、今週はガウス先輩が「長期の旅行」に出掛けてしまっていて不在なため、僕がしぶしぶ手伝わされているというわけだ。僕にも自分のぶんのレポートがあるにも関わらず。
「ねー教えてよー、頼むよおー」
トニーが、懲りずに僕にせがんでくる。
「ジェフー。ねぇ、ぼくら友達だろっ!」
「僕と君が、いつ友達だって言ったっけ?」
「……えっ!」
「冗談だよ」
トニーはすぐにむっとした表情になる。裏表がないというか、扱いやすいというか。まぁ、それがトニーのいいところでもあるんだけど。
その様子を正面から眺めていたウィルは、くすくすと笑った。
「仲いいんだね、二人とも」
「まぁね。仮にも親友だし」
「仮にもってどういう意味だよぉ!」
トニーが声を張り上げて、ウィルはまた笑う。本当に楽しそうだ。というか、この中で楽しそうじゃないのはトニーだけなのだが。
ウィルは我がウルトラサイエンスクラブの中でもかなり優秀な成績の生徒だ。具体的に言うと、トップから二番目。ちなみに一番はジョージというちょっと変なやつなのだけれど、これはまた別の話。まぁ、僕は人を成績で判断する気はまったくないのでこの話はやめにしておくことにする。
しかしそれを差し引いても、さらに性格も優しいときたもんだから、当然友達も多い。そのぶん敵も多いのだけれど。
……と。
「おやおや? 天才さんがこんなところで何をしていらっしゃるのかな?」
噂をすれば、だった。
僕たちが顔を上げて声にしたほうを見ると、そこには見慣れた二人の姿があった。
グレンとギャリー。双子の兄弟だ。
「きっと強者の余裕ってやつだよ、グレン兄さん」
「あぁなるほど、それなら納得だな。ギャリー」
「……さっさとあっち行けよ」
「なんだよジェフ君、心外だなぁ」
ギャリーが答えた。
「別に僕たちは君に言ってるわけじゃないんだよ。ちょっとそこの天才さんをね」
グレンが言った。
「そうそう。いつもの天才さんならとっくの昔に終わらせてるはずだろ?」
ギャリーが言った。
「今回は、たまたま忙しかったから……」
「へぇ、何に忙しかったって言うんだよ? ママへの手紙を書いてたとか?」
双子はげらげらと笑った。ウィルはじっと黙っている。
グレンとギャリーは何かとウィルに突っかかってくることで有名なのだ。別にときどきならたいしたことはないのだが、ことあるごとに行ってくるから手に負えない。
僕が双子にいいかげんに黙らせようかと思っていたそのとき、
「……さっきからうだうだとうっせぇなこの二人は」
双子の首根っこが後ろからガッシリつかまれた。
ふたりは揃ってにそちらを見る。首根っこを掴んだ男の子は、なおも言葉を続けた。
「からかってないでさっさと部屋に戻れ。分かったか。返事は?」
「……」「……」
「答えろ!」
そいつが怒鳴ると、双子は手をバシッと振りほどいて、急いで逃げ出して行った。
「……ボビー」
ウィルはその少年に視線を向けて言った。
「ウィル、別に俺はお前にとやかく言う権利はないかもしれないけどさぁ」ボビーと呼ばれた少年は、ウィルに近づいて言った。「一応反抗とかしようぜ。ああいうのは黙ってるとますます付け上がるだけだから」
「……うん、分かったよ」
「じゃあ、お休み。先に部屋戻ってるから。早めに切り上げとけよ」
ボビーはそう言ってロビーから出て行った。僕とトニーは呆然とその様子を眺めていた。
ボビーは、ウィルと同じ部屋で暮らしている男の子で、とにかく腕っぷしが強い。ウィルがからかわれるたびにどこからか現れてやってくるのだ。まぁ少々気も荒い時もあるけれども、いつもは気さくで明るい人だ。
「色々大変だねぇ、ウィルって」
トニーがほとんど無神経そうに聞いた。
「ううん、別に平気だよ」
「でもボビーも言ってたけど、やっぱり反抗とかはしたほうがいいよ。やっぱりいい気分ではないだろ?」
「そんなことないよ」
僕の言葉に、首を振るウィル。悲しそうな笑顔だった。
でもやっぱりいじめは良くないと思うけどなぁ。
「……んじゃ、僕もそろそろいくよ。いつの間にかできちゃってたし」
ウィルは(僕のより明らかに綺麗な字や図で書かれたと思われる)レポートを持って席を立つ。
僕は「じゃあね」と言って、トニーは「バイバーイ」と言って、ウィルはパタパタと戻っていった。
「さぁて、僕も部屋に戻るか」
「えっ、終わったの!」
「終わったよ」
「ホントに? 証拠見せろよっ」
トニーは席を立とうとした僕に向かって「ちょうだい」の手を突き出した。
「……それで、僕のレポートを写そうなんていう手には乗らないよ」
「あう」
トニーは思わず声を上げる。
「んじゃ、先帰ってるから」
「意地悪ー! 鬼! 悪魔! 臆病鳥ーっ! チキンチキンー!」
とりあえず、最後の二つは言われる筋合いはないと思う。
……心当たりは無きにしもあらずだけど。
「まったく……。ほら、寝る前には返してよ」
僕は根気負けして、仕方なくトニーの前に僕のレポートをパサリと置いた。
すると、その途端にトニーの顔がぱぁっと明るくなりだした。
「あ、ありがとうっ! やっぱり持つべきものは親友だね! よっ、大統領! 神様仏様ジェフ様!」
さっきと言ってることが正反対な気がするけれども、僕は気にせず部屋へと歩き出す。
そして、トニーも自分の筆記用具をまとめると、「待ってってばぁ!」と僕を呼びかけながら、そのあとを追いかけてきた。
「はぁぁ、ありがとジェフ。ずっと友達でいようぜっ」
トニーはそう言って笑った。
そんな、あきれるぐらい無邪気な笑顔を見るとき、僕もトニーが親友でよかったとつくづく思う。
……でも、
僕がもし苛められたとしたら、そのときはトニーは、ボビーがウィルを助けたみたいに、僕のことを助けてくれるんだろうか。そして、もしトニーが苛められたとき、ぼくはこいつを守ってあげることができるんだろうか。
少なくとも、僕にはそんな勇気はないように思われた。こいつの場合はどうなんだろうか。
「ん、どうしたの?」
トニーが僕の顔を不思議そうに覗き込んだ。
「いや、なんでもないよ」
そう答えて、僕はそれについて考えることをやめた。所詮は戯わ言なのだ。
少なくともこのときまでは、僕はそんなことを考えずにやって来れたんだ。
そう、このときまでは。