13

 クラウス、やめなさい 


 彼は足を止めた。
 あたりを見回してみたが、そばには誰の姿もなかった。今確かに、どこかから誰かの声が聞こえたような気がしたのだ。その場には、彼と、向こうで半ばうずくまりかかっている少年と、倒れている数人の仲間がいるだけだった。こんな近くで、ささやくような声を発することができる人間なんているはずがなかった。

 あなたは、ポーキーのロボットじゃない 
 私たちの、子ども! 


 また声が聞こえた。彼は首を振って、正面に向き直ると、そこには例の少年が、何か訴えかけるような目をして彼を見つめていた。
 手足の指の先が、またちりちりとうずきはじめた。彼は息苦しかった。胸がしめつけられるほどに苦しいのだ。彼はそれを振り払うように、ブレードを構え、少年に向かって突進した。少年は棒で再びその攻撃をうまく受け止めると、彼に向かって言った。
「クラウス! クラウスにも、聞こえたんだろ! いま、お母さんの声が! ぼくらは双子だから、だからきっと分かったんだ! 二人とも同時に分かったんだよ!」
 うるさい!
 彼は、取っ組み合いになっていた少年を、足で思い切り蹴り飛ばした。不意をつかれたのか、少年は簡単に地面に転がったので、その一瞬をついて、彼はバックパックの翼を開くと、緊急脱出の要領で上空へ高く飛び上がった。そして相手を見下ろしながら、両手に力をこめ、衝撃波のエネルギーを溜めていった。
 痺れはさらにひどくなっていた。どうしてこんなにつらくなるのだ、と彼は思った。どうしてこんなに、とどめを刺すのに躊躇しているのだ? どうしてこんな、名前も知らない少年や、あんな得体の知れない声の主に、こんな、言いようのない複雑な気持ちを抱くのだ?
 彼は全身の力を込めて、それを、放った。
危ない!
 少年の前に、誰かが飛び出した。
 あの男だ。
 あの、カウボーイの男。
 男はエネルギー波の直撃を受け、勢いよく吹き飛び、少年と重なってごろごろと転がっていった。彼は上空に浮かびながら、息を切らして、その様子をじっと見つめていた。やがて少年のほうが起き上がり、「お父さん!? お父さん!!」と、男の体を揺り動かしていた。
 体の震えが止まらなかった。耳の奥の音は、どんどん大きくなっていった。
「……ク、クラウス!」
 男がよろよろと立ち上がって、彼に向かって言った。まだ辛うじて立ち上がれるようだった。
「気づいてくれ。クラウス、ずっと、お前を探してたんだ」
 うるさい!!
 彼はカッとなって、男に衝撃波をぶち込んだ。男のまわりの地面がズン、と目に見えない力でえぐられ、男の体は押しつぶされるように地面にたたきつけられた。
「お父さん!!」
 少年が叫んだ。男は、立ち上がれなかった。彼は、歯を食いしばって、なおも痛みに耐えていた。そしてさらに追い討ちをかけるために、腕に力を込めた。

 クラウス、 
 あなたとリュカは、兄弟なのよ 


 耳の奥のリズムがさらに強くなっていったが、その聞こえてくる声は、かき消すことができなかった。彼の手は動かなかった。彼は、どうしていいか分からなくなっていた。

 聞こえる? 
 あなたは、クラウス 
 クラウスという名前の、私たちの子供なの 


 二つの大きな音が彼の頭の中で反響しあい、激突していた。頭が痛かった。彼は耳をふさぎ、目をつぶった。やめてくれ! もうやめてくれ!! こんなこともう沢山だ!!

 お願い、どうか思い出して!! 
 クラウスも、リュカも 





「クラウス」
 なに?
「呼んでみたのよ、試しに。いい名前だわ」




 彼は目を見開いた。
 アンナ?
 そうだ、と、彼は思った。ばらばらだった体が、糸でピンとひとつにつながったような気がした。ぼくが痛いのは、ぼくの、この痛みは、ぼくが、悲しいからだ。ぼくは悲しいのだ! そうだ、ぼくはクラウス、そう、ぼくはクラウスだ!
 そうだ、ようやく思い出した。ぼくは、ぼくは、ようやく、ここまで戻ってくることができた。ぼくは今、泣きたかった。嬉しかったのだ。ぼくは、嬉しい、嬉しくて、悲しい。悲しい、悲しい、悲しい、悲しい悲しい悲しい……。
 ぼくは顔を上げた。すると、その瞬間強い風が吹いて、まるで大きな布がはためいたように、目の前の闇が突然ふき飛び、砂となって消えた。そして、そこに現れたのは、見渡すかぎり一面の黄色い花畑だった。


 ぼくは、一瞬何が起きたのか分からなかった。ぼくは沢山のひまわりの中に埋もれ、ただ呆然とそこに立っていたのだ。広く、雲ひとつない青空の下で、まばゆく揺れる金のじゅうたんが、地平線のむこうまで続いていた。一枚の花びらが風に舞って、ぼくの頬の横を通りすぎた。美しい、と思った。今まで見た、どんな色よりも彩やかな色だと思えた。
 ふと、ぼくの隣に、誰かがいた。女性だった。茜色のワンピースを着、ブラウンの長い髪が風になびいていた。彼女は、ぼくの視線に気が付くと、やがてぼくに向かって小さく笑った。
「……お母さん!?」
 ぼくは叫んだ。お母さんは微笑んでいた。ぼくは、それ以上言葉を失って、泣きそうになりながら、お母さんの顔を見つめると、それから、その胸の中に飛び込んでいった。お母さんはぼくを迎えると、その腕でぼくのぼろぼろの身体を、優しく抱きしめてくれた。暖かかった。
 強く抱きしめられながら、あぁ、とぼくは思った。そうなのだ、ぼくは今までずっと、誰かからこうしてほしかった。誰かに、ぼくのことを、強く抱きしめてほしかった。ずっと、こうして欲しかったのだ。
「お母さん、」ぼくは言った。「会いたかった……ずっと、ずっと会いたかった……」
 お母さんは何も言わずに、ぼくの言葉を聞いていた。
「……ぼく、もういやなんだ。死ぬとか、生き返るとか、そういうのが。もう疲れちゃったんだ。今のぼくは、生きてるのか、死んでるのか、そんなことすら曖昧になって、もう、分からなくなっちゃったんだ。ねえお母さん、ここはすごく暖かいね。なんだか、すごく眠いんだ。腕の中は、すごく心地いいし、――ねぇ、ぼくさ、お母さんのこと、一目見てすぐにお母さんだって分かったんだよ。お母さんだって。本当だよ。不思議だよね。ねぇ、お母さん……」
 ぼくはお母さんの顔を見上げた。お母さんはゆっくりと頷き、もう一度、静かにぼくのことを抱き寄せた。



 風の音で、目を覚ました。暗い地面の真ん中に立って、ぼくは傷だらけのリュカと対峙していた。きょろきょろと辺りを見回した。あの花畑はもう消えてなくなっていた。
 ぼくは、リュカを見つめた。
 リュカはお父さんをかばいながら、呆然とした顔で、ぼくの方を見つめ返していた。
 ぼくは仮面をはずして、素顔を見せた。あの耳鳴りのような音楽も、もう聞こえなかった。ぼくはリュカに向かって微笑みかけると、それから、右手を振りかざし、リュカに向かって強烈な雷を放った。
「!! クラウス、だめだ!!」
 リュカの胸のバッジが、雷を跳ね返した。
 痛みが、ぼくの中を駆け抜けていった。そうだ、この痛みが、この身を引き裂かれるような痛みが、ぼくを苦しみから解き放ってくれる。


 ぼくは、リュカに近づいた。
 リュカは、悲しそうな瞳で、ぼくを見つめていた。ぼくはリュカを抱きしめた。強く、強く、抱きしめた。リュカもぼくも、何も言わなかった。


 やがて、足の力がすっと抜け、ぼくはバランスを崩して倒れこんだ。リュカがあっと悲鳴を上げ、とっさにぼくの身体を支えた。ぼくはもう立つことができなかった。リュカは、ぼくをゆっくりと、地面に横たえた。
「リュカ」
 ぼくはリュカに言った。これで、ようやく終わるのだ、とぼくは思った。
「……こんなことになって、ごめんな。ぼくの最後のときに、一緒にいてくれて、本当にうれしいよ」
「ううん」リュカが涙を流しながら首を振った。「もう、しゃべらないで……」
 後ろから、お父さんが仲間たちを連れてやってきた。お父さんは、ぼくのすぐ傍にしゃがみこみ、クラウス、と呟いた。ぼくはお父さんに頼んで、手を握ってもらった。寒かったのだ。なんだか、とても。
「ありがとう」ぼくは言った。寒さで、奥歯がかたかたと音を立てて鳴った。「……おとうさん。ごめんなさい。ちゃんと言うこときかなくて」
 お父さんは、何度も、何度も首を振った。ぼくは、深く息をついて、
「もう、ぼくは、お母さんのところにいくよ」
「いやだ!!」リュカが叫んだ。「クラウス、行かないで!!」
「リュカ」
 ぼくは、微笑んだ。
「また、さ。会えると、いいな」
 そうだ。ぼくは最後に、みんなと会うことができた、死んだお母さんにも会うことができた。だからきっと、たとえぼくが死んでも、いつか彼らと再び出会える日も、きっと来るにちがいないのだ。ぼくと、お母さんとお父さんと、リュカと飼い犬のボニーとで、再び笑い合える日もきっと来るにちがいないのだ。
 ぼくは目を閉じた。そこには、ただ深い闇が広がっていた。さよなら、と、ぼくは言った。聞こえていた彼らの声も、だんだんと遠のいていった。ぼくはただ一人、そこに残された。
 そして、その闇の向こうに、ただ一筋の光を見た。


 ありがとう。



 ごめんな。



 また、会えるよな。































END

BACK MENU NEXT