観音開き型の窓を、外から右手でコンコン、とノックした。返事はない。ぼくは続けてトントントン、と、少し強くはっきりと叩いてみた。ずっと外にいるのは寒いのだ。吐く息が、雪混じりの夜闇に白くぼんやりと浮かび上がって、すぐに溶けるように消えた。
 ここは、雪だった。こんな真夜中にスノーウッド寄宿舎の外に出ているのは、ほとんど珍しい機会だと言ってよかった。雪は音もなく、激しく吹雪きもせずに、ただ深々と降っていた。赤レンガ造りの寄宿舎棟を包むように、雪は流れるように全体へ降り注いで、玄関のポーチのそばに立つ外灯が、降る雪の多さと早さを物語っていた。ここら一帯はいわば、真っ白に沈黙していたのだ。
 深く降る雪で、ぼくの腕にも肩にも頭にも、着々と冷たく白いものが降り積もりつつあった。ぼくが窓をノックしてからしばらく間があって、部屋の中で閉ざされていたカーテンがおずおずと開けられると、誰かが顔を出した。──トニーだった。
 トニーは目を見開き、部屋の中でうわっと声を出して、その場に尻もちをついた。ぼくは、さすがに驚かせすぎたかと今更になって後悔するに至り、少し反省した。とりあえず、ぼくは軽く手を挙げて、「やあ」と苦笑いしつつ挨拶してみた。トニーは、まるで幽霊でも見たような青い顔をして、ぼくのことを見ていた。
「開けてくれよ。寒いじゃないか」とぼくは言った。
 トニーの部屋は、寄宿舎の2階だ。ぼくは今、なんと以前に修理したスカイウォーカーに乗って、2階の高さに浮かんだまま、外から直接トニーの部屋の窓をノックしたのだった。
 部屋の中のトニーがようやく立ち上がり、鍵を下ろして窓を開けた。トニーは青のパジャマを着て、栗色の髪をくしゃくしゃにしていた。彼は外の気温の低さに一瞬身ぶるいしたあとで、じとりとぼくを睨むと、それから満を持して、ぼくに向かって大声で叫んだ。
「どうしたんだよ! もうちょっとふつうに帰って来れないわけ!?」
「他の人に見つかるのが面倒でさ。それに、こういうのもなんだか面白そうかなって」
「面白いって言うか……ビックリするよ……!」トニーはまだ胸の鼓動を押さえているようだった。
「でも、一刻も早く、君に会いたかったんだ」
 ぼくがそう言うと、トニーは、ぼくに戸惑いの表情を見せた。ぼくの言葉の真意を測りかねているようであった。
「ジェフ……それ、何に乗ってるの? どこかへ行くのかい?」
「これはスカイウォーカーだよ」ぼくは自分の足下を見回しながら、説明した。ぼくは今スカイウォーカーの頭のてっぺんにある、丸い扉から身を乗り出しているのだ。「父さんの発明した空中遊泳機械なんだ。でもどこかに行く途中だったわけじゃない。ただ、君に会いに来ただけで」
 トニーは、また悲しそうな顔をする。
「どういうこと?」
「どういう事もなにも、そのままの意味だよ」
「分かんないよ。どういう意味だよ」トニーは少し語気を強める。「なんで今頃になって、こんな……そんなこと言うんだよ……」
 トニーは、明らかに困惑しているようだった。でもそれももっともだ。突然、こんな驚かせるような様子でやってきて、ぼくが、混乱させたのだ。
 会いに来た、というぼくの言葉に、トニーは「……僕は、会いたくなかった」とだけ答えた。それから、こんな形で会いたくなんてなかったよ、とくり返すように呟く。声も少し震えているようだった。こんな調子じゃ、目を合わすことさえままならないな、とぼくは思った。そりゃ、あんな別れ方をしたのだ。当然と言われてしまえばそれまでだった。
 だから、ぼくは正直なところを告げた。
「……最後になるかもしれなかったんだ」
 トニーは、伏せていた目をすっと上げると、はじめてぼくの事をまともに見た。嘘ではなかったが、明らかに、言い方はまずかったように思った。誤解をはらんでいた。でも今はせっぱ詰まっていたし、最後にトニーに振り向いてほしかった。
 ぼくは、トニーにだけは許してほしかったのだ。
「最後……っていうか、厳密には、その可能性があるってだけなんだけど。でも、今回は本当にもう戻ってこられない可能性があって……だから、最後に誰と会いたいだろう、って思ったときに、君のことを思ったんだ」
「もう戻ってこられないって? 最後って、どういう事なの?」
「寄宿舎に一度戻ってきたときにさ、」ぼくは言って、腕組みをしながら、寒さに肩をすくませた。とにかく外は寒いのだ。「君にせがまれて、ぼくが今までにしてきた旅の話をしただろ。その決着がさ、ようやく着きそうなんだよ……こっちに来ない?」
「そっちに?」とトニーが訊く。
「できれば、なんだけど……夜の散歩に出る気ないかな。君を連れていきたい場所があるんだ。話したいこともある」
 トニーはしばらく返事をしなかった。
 そう簡単に快い返答がもらえないことは承知していた。……が、その沈黙は意外とあっさり、「待ってて、支度してくる」というトニーの一言で破られた。部屋の中にトニーが引っ込み、窓が一旦閉じられてから、ややあって後、ぼくがコートのポケットに手を突っ込んで待っていると、窓が再び開かれた。制服と外出用のコートに、いつものトレードマークのハットをかぶった、トニーの姿がそこにあった。
 ぼくは、スカイウォーカーをできるだけ窓に近づけていった。トニーの方はそわそわと少し落ちつかなそうにしていたが、やがて意を決したように、窓にぴょんと身を乗りだし、足をかけて登った。それから窓枠に手を掛けながら、不安定そうにその場で立ち上がって、ぼくの方へ手を伸ばした。
 ぼくは、伸ばされたその手を取った。
 せえので声をかけ合うと、トニーはぼくの手に引っぱられるように跳び、スカイウォーカーの機体の上に音をたてて乗り移った。瞬間ぐらりとスカイウォーカーが揺れたが、なんとかバランスを保ちつつ、スカイウォーカーは再びふわふわと、元の位置へと浮き上がりはじめた。
 手をつないでいるぼくとトニーは、その場で呆然と見つめ合っていたが、しばらくしてぼくが、「中に入りなよ」と言って、自分の腰から下の入り口を指した。トニーはぼくに誘われるまま、こくりとうなずいた。


 天井からのハシゴを下りると、スカイウォーカーの薄暗い内部には4〜5人が乗るスペースがあって、小さな座席が設置されていた。壁一面には、全包囲で外の景色が見渡せる液晶ディスプレイがかかっている。コクピットがより広くなるように、ぼくが再び設計し直したのだ。
 ぼくら二人が運転席につくと、スカイウォーカーの自動運転装置が作動した。機体はふわふわと浮上を開始すると、ゆるやかな速度で空を切り、雪の中を飛びはじめた。スカイウォーカーは、みるみる速度と高度を上げ、ウィンターズの街を下界に見ようとしていた。
 会話は、なかった。ぼくはどう切り出そうかしばらく迷っていたし、トニーは何もしゃべらなかった。スカイウォーカーはすぐに雲の層に入って、視界がしばらく効かなくなったあと、突然、ぱっと雲海の上に出た。
 そこには、一面の、星空が広がっていた。
「……すごいね、ジェフ」
「雲の上に出たからね。遮るものが何もないんだ」
 ぼくは付け足すようにそう言った。星空に見とれていたトニーが、こちらを向く。
「今はさ、イーグルランドに向かってる。そこにみんなが待ってるから」と、ぼくは目のやり場に困りながら続けた。
「ずいぶん遠くまで行くんだね……」
「──そろそろまた下に潜るよ。ちょうどフォーサイドの上空だ」
 その言葉に応えるように、スカイウォーカーも降下をはじめる。
 真下に広がっていたはずの雲の層も、ぼくらが猛スピードでかき切っていったせいかまばらになっており、はるか下の様子が垣間見えた。フォーサイドの街の明かりやネオンサインが、きれいに区切られた網の目状に、まるで地上の星空のごとく、きらめいて見えたのだ。
「……話したいことって?」
 と、そこでトニーが改まってぼくに訊ねた。ぼくは、しばらく黙っていた。
「ぼくが、小さいころの記憶がないって話、しただろ」
 そう言うと、トニーはおずおずと頷く。
「それをこの前、やっと思い出したんだ」ぼくは続ける。「でも、最初に思い出したとき、ぼくの中で色んな思いが一度にごっちゃになって、ぼく自身、すごく混乱したんだ。それで、ちょっと前に君が、ぼくの電話にずっと連絡してくれてた時、色々ひどい事を言って……それが、今でもずっと心残りで。だから、せめて決着をつけに行く前に、君に謝りたかった。あの時は、本当にひどい時期だったから……」
 トニーは、黙って、ぼくの話に耳を傾けていた。
「……ぼくの母さんってさ、ぼくがまだずっと小さかった頃に、死んだんだ。それで、ぼくはその死んだ時の様子を、目の前で見たはずだった。けどそれがずっと思い出せずにいて。……ぼくは、母さんを殺したのは、ずっと自分だと思ってた。結果から言えば、母さんは、ぼくに殺されたわけじゃなかったんだ。でもあの時、ぼくは、何もできなかったし、それに、母さんの体をむやみに動かして、逆に母さんの命を縮めてしまった。……その事実が消えることはないし、簡単に、忘れることもできない。ぼくはきっと、そのことと向かい合って、折り合いをつけながら、これからもずっと生きていくんだと思う」
「……」
「トニー、あの時は、本当にごめん」
「い、いいよ! 僕もう全然気にしてないよ」トニーがすかさず答えた。
「……ありがとう、聞いてくれて」
 ぼくはそれだけ言った。
 スカイウォーカーは、夜のドコドコ砂漠の道路の上を、低空飛行しながら音もなくひた走っていた。それからスピードを上げ、遊ぶようにふわりと一段上に浮かびあがると、そのまま空へと飛びあがり、森に包まれる小高い山へ船体を向け、その峰をすっと飛び越えた。そしてぼくらの眼下に飛びこんできたのは、盆地に広がるスリークの街だった。
 北に流れるグレープフルーツ川を上って行けば、もうサターンバレーは目と鼻の先だ。


 スカイウォーカーが砂埃を上げながら、ふわりと夜明け前のサターンバレーに降り立つと、そこには既にみんながぼくらのことを待ち構えていた。
 ぼくはスカイウォーカーのてっぺんの蓋を開けて、トニーとともに備え付けの梯子を下りていき、サターンバレーのやわらかな芝生の上に降り立った。そこにはどせいさんに囲まれた3人の仲間たちや、父さんやアップルキッドがいて、その背後には銀色にかがやくどせいさん、もとい、修繕と改良を終えたと思われるスペーストンネルもどんと鎮座していた。
 みんなの中から、やがて白衣姿の父さんが静かに一歩前に出て、いつもの穏やかな表情で、ぼくと向かい合った。トニーは、こんな場所に父さんがいるとは思いもよらなかった様子で、「え、な、何で?」とぼくと父さんの顔を交互に見ては、目を白黒させていた。
「いよいよその時がきたようだな」と博士は一呼吸おいて言った。「準備は完全かね?」
 ぼくは頷く。
「よし。スペーストンネル2には、体力回復と冒険のデータ記憶……このふたつの機能がついている。心配せずに乗りこみたまえ」
 短期間で新たに改良が加えられたこのスペーストンネル2は、目標のいる場所をサーチし、時空間を飛び越えてそこにワープする機能を携えている。そして、ギーグのいる場所へ行くということは一体どういうことなのか、ぼくにはもう想像が付いている。
 それは、この世界を抜け出して、『ぼく』がもともといた世界へ帰るということなのだ。そしてそれこそが、すなわちギーグを倒すということだ。今いる世界と向こうの世界、どちらが『本当の』世界なのか、という問いについては、まだよく分かっていないのだが。……どちらの世界も、ぼくにとっては何物にも代えがたい重要なものだと思えるからだ。
 ぼくは振り返ってトニーの方を見た。トニーは、何か言いたげな顔をしながら、何も言わずにぼくのことを見返していた。ぼくは視線を戻すと、最後にもう一度、みんなのことをぐるりと見まわした。すると、視界の端に、なにやら見覚えのある人物の姿を見つけたのだった。
 アイザックだ。
 銀髪に黒いコート姿で、彼は腕組みをしたまま、ぼくのことを鋭い目つきで見つめていた。何をしようとしている訳でもなく、ただ無表情に、これからのぼくの動向を寸分も漏らさず見張っているといった具合だった。


 そうだ、彼はまだ消えないのだ。ぼくは自分のマジカントを確かに打ち砕いたが、ぼくが自分の過去をいつまでも忘れることができないように、彼も、いつまでもその姿を消すことはないのだ。ぼくがこんな風に、すっかり彼を意識しなくなったときに限って、彼はそこにひょいと姿を現しては、ぼくのことをじっと観察するのだ。そしてそれはこれからも、ずっと続くんだろう。
 でも、同時にそこまで心配もいらないということも想像がついていた。一度でも彼に立ち向かうことができたという事実で、今のぼくは確実に強くなっている。ぼくは、彼とも何らかの折り合いをつけて、これからもずっと生きていくのだと思う。
 ぼくは、父さんと最後の別れをしたあとで、父さんの後ろに控えていた3人の仲間の元へと歩いていった。ネスもポーラもプーも、いつもの格好に戻っていた。ネスは、赤いキャップに青と黄のしましまのTシャツを着て、デニムの半ズボンをはき、背中に黄色いリュックを背負っている。ポーラは金色の髪を赤いリボンで後ろに結って、桃色のワンピースを着、後ろ手を組んで、いたずらっぽくこっちを見ている。弁髪あたまのプーは胸の前で腕を組み、ぼくのことを優しげな表情で見守っていた。
「みんな、お待たせ」とぼくは言った。「行こう」


「――ジェフっ!!」


 ぼくらがうずまき模様のスペーストンネルの壁面から中に乗り込もうとした時、不意に後ろから声がかかった。振り向くと、トニーがどせいさんたちに囲まれながらその場にしっかりと立っていて、かぶっていた帽子を胸の前で握りしめていた。
「……そっちに行ってもさ、元気でね!」
 何かを察知したのだろうか、トニーはそう言った。
「うん、ありがとう」とぼくは答えた。
「僕、手紙書くから!」
「え?」
「手紙書くからさ! 元気でね!」
 ぼくは、苦笑してしまった。
 一体だれに配達を頼むというんだろう? ……いや、でも、この世界の住人ならきっとやってくれそうな気もどこかでするし、それに、上手くすればぼく自身がこの世界に帰ってきて、トニーから手紙を直接受け取るということも、もしかしたらできるかもしれないのだ。
 ぼくがいなくなった時、残されたこの世界がどうなってしまうのか、誰にもわからない。だけどもし、ぼくがこの世界がこれからも存在するように願い続けたなら、もしかしたらこの世界は引き続き存在し続けることができるかもしれない。そうだ、ぼくは、ここに帰ってこられるのだ。いつかまた何かぼくが何かを見失ったときでも、この世界で過ごした出来事を、ぼくは忘れないだろう。帰れる場所が他にもある、という事実が、ぼくを確かに強くしていくのだ。そりゃ、それに頼り切ってしまうだけでは、いつかの『マニマニの悪魔』のようなことになるかもしれないけど……。
 でも。
 きっと、この世界も向こうの世界も、いつまでもぼくのいる場所であり続けるだろう。
 スペーストンネルの中は意外に広く、4人がちょうど乗り込めるだけのスペースと座席があった。まぁ、このコクピットはスカイウォーカーと同じく僕が設計に参加したのだから、当然なのだが……ネスとぼくが前に座り、ポーラとプーは後ろの席に腰掛ける。みんなが安全装置を付けたのを確認すると、ぼくは前方の電源スイッチを点ける。スペーストンネルは静かに起動を開始する。
 ネスが「よーし、行くか! テンションあがってきた!」と叫び、後ろのポーラに「ちょっと、最後のときくらい大人しくしててよ!」とたしなめられる。それが面白くて、つい笑ってしまう。ぼくは座席に身を預けながら、ふと眼鏡をはずし、畳んでポケットに入れる。
 もうこれは必要ないかもしれない、とぼくは思う。
 だってぼくはもう、本当に、自分を好きになれたのだから。
 そうして、ぼくらを乗せたスペーストンネルは、やがて、静かに発進した。
(終)

BACK MENU NEXT