6時になると母親が家に帰ってくるため、その前には家を出なければならず、とりあえず最初の英語の後にやる小論文の授業にだけは出よう、と思い、3時半に家を出たのだが、小論文がはじまるのは2時50分からだった。体が追いついていなかった。
 家を出る前から、いやだなぁ、外寒そうだなぁ、窓鳴ってるし、と思っていたのだが、案の定、というかそれ以上だった。ダウンジャケットを着込んでリュックを背負い、念のため手袋をして、家を出ると、強い北風が体の中に吹きこんできた。おれは首をすくめ、小さく丸まりながらとぼとぼと歩いた。口をあけていると風が口の中にびゅおうと入ってきて、口内炎が露骨に痛むため、口をぴったり閉じ、なるべく鼻だけで息をしながら歩いた。耳の中で布のはためくような、くぐもった風の音がした。
 どれもこれもぜんぶ口内炎のせいだ、とおれは思った。冬がこんなに寒いのも、頭が痛くて体がだるくて辛いのも、唇がくっついてばりばりになっているのも、気分がこんなに重くて暗くて、ぐるぐるになっているのも、ぜんぶ口内炎のせいだ、と思った。だから予備校の講義に遅れたりするのだ。ぜんぶ口内炎の痛みが悪いのだ。


 住宅地をうろうろと歩いて通り抜け、地元の小学校の近くのバス停までやってきた。時刻表を見ると、バスはあと10分くらい後に来る予定になっていた。バスは5分かそこら遅れてやってくるのが常識なので、それなら歩いた方が早いと思った。道を歩いている途中で後ろから追い抜かれたとしても構わなかった。もうどうせ講義には間に合わないのだ。
 小学校を通りすぎ、女子大の敷地の脇の、ゆるやかな駅への坂道を登っていく。そのうちに、口内炎の痛みも次第に引いてきた(ずっと口を閉じていたからだろうか?)。風もだんだんゆるやかになってきている気がする。そうだ、おれはこんな風に目的も持たずに、駅へ向かってただ歩いていて、いったい何がしたいというのだ。もっとちゃんとこれからのことを考えなければ。とりあえず、昨日やった分の復習をすませて、それから今日はたまたま授業をさぼってしまったのだし、もっと次の授業に追いつけるように予習もしなければ。その前にちょっと気分を晴らすために小説本を1,2冊買って、それからゲーセンでQMAでもして、あとの時間は勉強にまわせばいい。そう思うとなんとなく元気がわいてきた。そしてその横を、さっき見限ったバスが、地面を揺らしながら通り過ぎていった。


 本を買って、本屋の中をてきとうに一回りして、それから階を下りて、新百合ヶ丘のイトーヨーカドーから出ると、空はもう暗くなりかけていた。さっき起きたばっかりのような気がするんだけどなぁ、とおれは思った。そういえば、行きで坂道を登っていたときには、もう日が傾きだしていたのだ。
 デパートの中は暖房の効きすぎで暑くて、気分が悪くてたまらなかったのに、外に出たは出たで、さっきと同じような強い北風が吹いてきて、おれは再び首をすくめ、人通りの多い遊歩道を歩いた。口内炎がまたずきずきと痛み出した。
 しばらく歩き、腹が減ったので屋台で今川焼を買って食べ(痛みで、食べるのにまた一苦労した)、この前やっと見つけたばかりのゲームセンターに辿りつき、風の寒さから逃げるように、煙草の臭いの充満した騒々しい中に入っていった。暖房があたたかい。口もとくに痛むというほどでもない。おれはQMAの筐体の前の座席にすわり、手袋を脱いで、サイフからIDカードを取り出して挿入すると、ディスプレイをタッチし、ゲームに集中することにした。ふと携帯にメールが届いたので、見てみると、母からだった。今日は遅くなる、ということだった。おれは都合がいいとばかりに、100円玉を入れた。


 予備校の口座は計算してみると、1日のひと講座につき、いっきに何千円かが一瞬で消費されていくことになるのだ。まぁ、あの2時間くらいの授業の中で、その金額に見合った知識をおれが得ているかと言われれば、おれにはよく分からないのだが。
 この100円だって結局はおれの稼いだ金じゃないのだ。おれの一挙一動で簡単に金が吹き飛んでいくのだ。リアルな話だとおれは思った。
 ビッグになれるには一体どうしたらいいんだろうとおれは思う。おれの好きな作家には、中上健次とか、中原昌也とか、金井美恵子とか、みんな「な」とか「か」とかいう字が入ってるんだよなぁ。改名でもしようかしら。中川圭一なんてどうかな。(笑)。へへへ……。


 買った小説を読んでいる間に、駅前のバス停に、帰りのバスがやってくる。ブレーキ音をたててバスが停車し、並んでいた列が進み始める。ぼうっとしている間におれの番になって、あわててバスカードを取り出そうとして、間違ってパスネットを取り出して、機械に入れてしまった。手袋なんてしていたせいで、手元が狂ってしまったのだ。
「あっ、違う」
 と、思わず一人ごとが出た。もたついている事への自己弁護のつもりだったのだが、かえって不自然だった(当たり前だ)。後ろに使えている客から視線を感じる。体中からへんな汗がぶわっ、と吹き出る。おれは、口内炎のせいだ、と思った。ぜんぶこのずきずきする痛みが悪いのだ。この痛みが、おれに頭痛を起こし、気分を悪くさせ、そしてこのおれをどうやってか、貶めようとしているのだ。




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