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感想(上)(下)に加筆しました
■ MOTHER3 TIPS ■
そう大したものでもありません。
MOTHER3をプレイしていて、色々気付いたネタのようなものをメモ程度に
書き留めていこう、と思ったのがページ開設のきっかけです。
あとで色々追加できればしていきたいと思っていますが、見つからないとどうしようも……。
要は小ネタ集です。
注意:普通にネタバレがあります!
リュカとクラウス / フリントとヒナワ / あずかりやのおじさん / 映画館の映写室にあった2体の人形 / 感想(上) / (中) / (下) / (とじこみ付録:)
MOTHER3やった人に10の質問
リュカとクラウス
リュカとクラウスという双子の名前の元ネタは、アゴタ・クリストフの「悪童日記」という小説に出てくる双子の主人公の名前です。MOTHERシリーズの原作者・糸井重里氏が、これを読んで感銘を受け、それに敬意を表す形で主人公の双子にその名前をつけた、という話らしく、2000年のインタビューでも、
―― 主人公の双子の兄弟である、リュカとクラウスが登場する小説があると聞いたんですが。
糸井 はい、これは「悪童日記」という小説の主人公、双子の兄弟に誠意を表してというか…。
―― どんな小説なんですか?
糸井 「悪童日記」ってRPGみたいな小説で、とても見事なんです。その本に、すごいインパクトを受けて…。おもしろいよ〜。作者は女の人で、アゴタ・クリストフという人。早川書房から出てます。3冊シリーズの1冊目です。
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と、本人自身認めているほどです。
悪童日記とMOTHER3本編との共通点は、実際はそこまでありません。悪童日記は「ふたりの証拠」「第三の嘘」と続く三部作のうちの一作目で、第二次大戦下のハンガリー(……がモデルだと推測されている)を舞台に、疎開によって「おばあちゃん」の家にあずけられた双子の「ぼくら」を主人公に、その二人がある時は優しく、またある時は冷徹に、たくましく生きていく様子を描いている小説です(リュカとクラウスという名前が出るのは、二作目の「ふたりの証拠」からです)。
「ふたりの証拠」には、終盤において「時間が経過する」という重要なシーンがあります。主人公視点のパートから急に話が飛び、その話の舞台となっていた町に、突然ある男がやってくるというシーンが始まるのです。その話をたどっていくと、なんと、今まで語られていた話の時代から、およそ二十年の月日が流れたことが読者の前に明らかになっていきます。
その部分が、MOTHER3における第4章からの、タツマイリ村が発展を遂げていく様子と似ているのではないか、という風には考えられます(共通点は「そこまで」ない、とさっき言ったのはそのためです)。
しかし、シーン自体の持っている印象は、それぞれだいぶ異なっています。MOTHER3においての時間の経過は、あやしい旅商人によって持ち込まれた「しあわせのハコ」によって、村の人々がいつの間にか変わってしまった、という、ある種の切なさが含まれている(とぼくは個人的に思った)わけですが、「ふたりの証拠」のシーンにおいては、そのような印象よりも、読者に謎と戸惑いを投げかけるようにして、淡々と進行していくような印象を受けます。
ちなみに、「リュカ」と「クラウス」という名前、悪童日記の作中では「LUCAS(リュカ)」と「CLAUS(クラウス)」という、アナグラムとなった一対の名前になっており(おそらくハンガリー読み?)、それがふたりの絆の深さを象徴しているというか、まぁ「悪童日記」シリーズ全巻読み終わったぼく個人としては、なんというか微妙な心境なのですが、まぁ、それはそれとして。
何はともあれ、この悪童日記は個人的にかなり、かなり面白かったので、MOTHER3もクリアしちゃったし手持ち無沙汰だなぁー、という方には、ぜひお勧めしておきたい一冊であります。文庫本は現在「ハヤカワepi文庫」という結構マイナーなレーベルから出ていて、普通の本屋さんやらを覗いてみてもそう簡単には見つからないとは思うのですが、現在はAmazonやら何やらでネット通販でも普通に取り寄せられるようになっているので(便利な時代です)、ぜひ読むのをお勧めしておきます。文字が大きめなのもあって、けっこう簡単に読み終えてしまったし。いやでも本当に面白かった!
フリントとヒナワ
「フリント」とは、火打石のこと。多くはライターなどに使われていた(いる?)ようです。また、銃には「フリント(ロック)式」という点火方式があり、日本でも主に江戸時代などに、火縄銃と並んで使われていたそうです。(Wikipedia、「フリントロック式」の項参照)
つまり、そう考えると、フリントとヒナワという名前は「フリントロック式」と「火縄式」の、ふたつの
銃の形式の名前から来ていたんですね。……というのを、「かずまんのノート」のMOTHER3掲示板の記事で知りました。納得ー。
あずかりやのおじさん
3は2と違い、手に入れたキーアイテムはどうぐの「カギ」コーナーに全てあずけられることになったので、今回はほとんど利用されなかっただろう、と思われるあずかりやのおじさん。
彼のそばにある改造リアカーを調べると、「ニットキャップマンズカー」という名前であることが分かります。事実あずかりやのおじさんは緑色のニットキャップをかぶっており、ニットキャップマンとはたぶん本人のことを指しているものなのだと推測がいきます。
このニットキャップマンという言葉、もともとは「ムーンライダーズ」というバンドの曲のタイトルで、その作詞は他ならなぬ糸井さん自身が担当しています。(原曲はぼくも聴いたことがありません。ただ矢野顕子が「ピヤノアキコ。」というアルバムの中でカバーしていたのが収録されていて、それを聞いたのですが、結構いい曲でした。)
歌詞の内容は、「山田川(さんだがわ)のほとりにあるテトラポッドの近くに住んでいた、フジオさんという名前のホームレス(?)と、『ぼく』との交流を描いた作品」、みたいな感じになっております。(「ピヤノアキコ。」には他にもいい曲いっぱい入ってるので、これも普通におすすめです。あ、でも「Home Girl Journey」でもいいなぁ)
映画館の映写室にあった2体の人形
映写機を回す老人と、その横にいるトトという名前の映画好きな少年。これは、有名な「ニュー・シネマ・パラダイス」という映画のパロディですね。これも泣けるんだよなぁ・。゜(つД`)・。゜
感想(上)
MOTHER3(以下3)というゲームで一番特徴的だった点は、「MOTHER(以下1)」と「MOTHER2(以下2)」で築きあげてきた「MOTHERらしさ」というものを徹底的に排除しようとした、という部分にあるのではないかと思います。
例えば、3においては、MOTHERシリーズの根底にあった(というか、数あるRPGにおいて当然と踏襲されてきた)「街から街へと渡り歩く」という概念がまずありません。何しろ、3では人の暮らしている街というものが元々「タツマイリ村」という小さな村ひとつしかないからです。序盤においてプレイヤーに与えられる世界はただそこだけであり、プレイヤーの操作するキャラクター(たとえばフリント)にとっても、タツマイリ村という世界はそれだけで十分に機能しており、それがすべてです。
村人ひとりひとりにはすべて「違うグラフィック」と「異なる名前」が与えられ、それぞれがひとりの「個人」として扱われており、人々は村単位で、家族ぐるみに近い付き合いをしています。そこがまた「世界の狭さ」の感じをさらに高めていると言えます。(……ただ、その特徴も、4章に入って3年の月日が流れると、村人以外の人間が多く入ってくるせいで、見られなくなってしまうのですが。)
そしてプレイヤーは、街から街へ、というある種「空間」的な変化ではなく、年月の経過による村そのものの「時間」的な変化でストーリーの進行を見ていくことになります。
糸井:
もうひとつは、同じ土地でも、時間が経てば変わるものですよね、ふつうは。
最初の最初に『MOTHER 3』のアイデアが出たのは、『MOTHER 2』を作っているときで、(制作で)みんなが死にそうになっているときに、あるヤツに電話して、「3の構想が出来たんだよ!」。って迷惑がられたんだけど、それは単純で、探偵ものがやりたかったんです。
ある都市を主人公にして、ヘボ探偵がいて、浮気調査だとか、いろんなことして暮らしてる。ナンパなやつで、花屋の娘にちょっかい出したりとかして、依頼ごとに電車に乗って別の町に行ったり、図書館に寄って資料調べたりして、ちっちゃい事件を解決しながら食うためのお金を集めてる。そんなろくでもない探偵が、大きな殺人事件に巻き込まれて、話を解決していく、というプロットを考えたんですね。
そのプロットにおいていちばん重要なのが、同じ花屋の店員でも、昨日会ったときと今日会ったときでは話が違うということ。それを綿密に積み重ねていく。「さっき男が通りかかったわよ」というのは、前の日ではないわけ。でも、次の日、ほんとに通りかかったあとに聞くと「通りかかったわよ」っていう。都市が育っていく、みたいなゲームを考えたんです。それを『MOTHER 3』のコアにして、つくりはじめたんですよ。
今までのロールプレイングゲームって、基本的にロードムービーなんですよ。渡り鳥が、次から次へと新しい町に行って、なにかが起こる。前の町に戻ったときにはもうその町の物語は済んでるから、「やあ、ごぶさたしてます」というくらいなんです。それを、何層にも積み重ねていって、時間ごとに人が育っていくという構造を、最初にやりたかったわけですね。
それを、主人公を変えながら、あるワールド、世界が変化していって、その世界はいったい何だったんだろう、ていうことで、最終章に向かう。
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感想(中)
それから3では、序盤において、フリントの妻であり、リュカとクラウスの母であるヒナワが、死によって喪失されることにより、「MOTHER」というコンセプト自体が排除されています。(そもそも、この「味方の登場人物が物語中に死ぬ」という現象すら、MOTHERシリーズではめったに見られませんでした。)
主人公が家に帰っても、そこには、主人公の好物を作ってくれたり帰りを待っていたりしてくれる家族の姿はありません。というかそもそも、その家のドアは第一章の最初でノブが壊れてしまって、おかげで「帰れる家」という機能そのものがその家から失われています。(そして、その失われたドアノブが、ED後に全ての人間と家族が元通りになったあとで、プレイヤーの手に渡るところとなる、という演出は、なかなか示唆的ではあります。)
また、1〜2では、セーブのたびに主人公と電話で話し、陰でいつも見守ってくれていた父も、今回はプレイヤー自身が動かすことになり、そして愛する妻(そして後には息子の一人)を失った悲しみに、もがき、苦しむ一個の人間として描かれます。そこには、2までの流れで存在していた、「(子供の視点から見上げる形の)父」の姿は見られません。
それから、1と2ではずっと家に残っているはずだった、飼い犬の存在も今回は無視できません。3では、立派なプレイヤーキャラクターの一員として出てくるからです。最初のネーミング画面で名前入力したキャラクターの約半数は途中で死に、しかもその中で、最終パーティーのメンバーに残っているのが、双子の片割れとその「飼い犬」だったなんて、ストーリーの始まる前で誰が予想できたでしょうか。
またもっと細かい点で言えば、その最終パーティーのメンバー構成も1〜2の流れと一線を画しています。金髪の超能力少女はまだしも、眼鏡の友達の姿すらありません。
ここまでのことを、なにもMOTHERシリーズでやらなくても良かったんじゃないか、という意見もあるかもしれません。しかし、このゲームはむしろ「MOTHER3」として世に出すことで、初めて意味を成すゲームだといえます。3は、1と2で築きあげてきたものからあえて逸脱し、それらを破壊しようとしたゲームなのです。(追記:これは、別に1と2が破壊するに値するくだらないゲームだったという意味ではありません、決して。)ですから、それは必ず、「MOTHER」というゲームの文脈上において理解されなくてはいけません。それをわざわざ割り切ってしまって、もうひとつの別個のゲームとして捉えてしまえば、MOTHER3は何の変哲もない、ただの感動の物語にしか過ぎなくなります。
感想(下)
そして、エンディングが近づくと、物語は更なる様相を呈してきます。
クラウスが倒れたあと、みんなの見守る目の前で、リュカは七本目の聖なる針を抜こうとします。そしてプレイヤーの見ている画面に、ある選択肢が突きつけられます。
◇あなたのいのち
あなたを しんじる みんなのいのち。
◇すべてを かけて
ハリを ぬきますか?
[>はい いいえ
しかし、ここでプレイヤーが「いいえ」を選んでも、ゲームでは、リュカによって針が抜かれてしまいます。(ここには眉をひそめた方もいると思います。「選択の余地なしかよ!」という、今までのMOTHERシリーズであるまじきあり方でした。)
しかし、これはいったいどうしてだったのでしょうか?
RPGというジャンルのゲームにおいて、「はい」か「いいえ」の選択、というのは、ストーリー上でかなり良くあるイベントのひとつだと言えます。MOTHERシリーズではとくにそうした部分に力が入れられており、「選択肢を見たらとりあえず『いいえ』を選んでみる」、といったプレイングもよく見られます。
しかし、ここでは「いいえ」を選んでも、プレイヤーの意思に関係なく何のフォローもなしに、強制的に針が抜かれます。そう、何のフォローもないのです。これって、ひょっとしてバグなんじゃないか、とさえ思えたほどです。
RPGにおいては「いいえ」を選んでも結局「はい」を選ばざるを得ない、というのも、これまたよくある光景のひとつですが、それはあくまで、「いいえ」を選んだ際にセリフが話の一番最初に戻ってループしたり、何か違うセリフを言われたままストーリーが進行せず、結局「はい」を選ばなくてはいけなかったり、といったある種「間接的な処置」にとどまる場合がほとんどです。(それは「結果的にそうなった」にすぎません。)「はい」を選ばなければストーリーは進行しないよ、ということをプレイヤーに分からせるための説明的な役割も果たしているとも言えます。
それを考えると、そういったものも何もなしに、「はい」か「いいえ」を選んだ結果、それがまったく同じ行動につながる、ということは、果たしてありえることなのでしょうか? プレイヤーは、リュカが地面から最後の針を抜く姿を、ただ画面の前で呆然と見ていることしかできないのです。
これはなぜなのか?
それは、あのイベントのあの瞬間から、プレイヤーである私(あなた)と、操作キャラクターであるリュカが、完全に乖離したからではないでしょうか?
つまり、その瞬間、「針を抜いた」のはあくまで「リュカ」であり、「プレイヤー」ではなくなったのです。「プレイヤー」が「はい」を選ぼうが「いいえ」を選ぼうが、もはやプレイヤーから独立したキャラクターである「リュカ」自身は、ハリを抜くことを選び、そしてそれを行ったのです。
ここではむしろ、作り手側はプレイヤーに、素直に「はい」を選んでもらうのではなく、「いいえ」を選んでほしかったのではないのでしょうか? そしてプレイヤーは、自分の意思とは関係なしに動くキャラクターや、勝手に進んでいく物語を驚きの目で見、そして、あれよあれよという間に崩壊していく世界を目撃して、ただ、あっけにとられる、という様子を、作り手側は見たかったのではないでしょうか?
(考えすぎでしょうか? ……ですが、むしろ「いいえ」の選択肢のほうにこそ力が入れられている、とも言えるこのゲームにおいて、あんなバグみたいなイベントが起こりえるのでしょうか。問答無用にやるにしても、メッセージの一言くらい入れるのは造作もないはずですし、そこにはなにか別の理由がある、と考えたほうが、自然な考え方ではないでしょうか?)
そして、間もなく暗闇がやってきます。
「END?」という文字が表示されたあと、プレイヤーは、十字ボタンで移動が可能であることに気がつきますが、その操っているキャラクターも、もはや今まで操作してきた登場人物ではありません。それはプレイヤー自身の名前を持った、他でもないあなたです。あなたは暗闇の中を歩き、そこで、あの後すべての人間が生き返り、世界に平和が訪れたことが告げられます。今まで出会ってきた人々に再会し、そしてある一人に、あなたはこんなことを言われます。
◆そっちの せかいは
どんなふうだい?
◆こっちは なんとか
やっていけそうだけど・・・。
◆そっちは だいじょぶかい?
◆そっちの せかいのこと。
◆*****さん
よろしくね!
プレイヤーは、大団円をむかえた人々をあとにして、感謝の言葉と別れの挨拶に見送られながら、一人で歩いていきます。そしてふと気がつくと、周りには誰の姿もありません。その手の中にはさっき拾ったドアノブが握られているきりです。
そうしてあなたは一人残され、途方にくれます。そうしてスタッフロールが流れはじめ、それが終わった後も、そこで呆然としているのです。プレイヤーはこのゲームが終わって、これからどこに向かえばいいのでしょう。その手にしたドアノブは、いったいどこの、誰の家のドアノブなのか、それは、プレイヤー自身にしか分からないのではないでしょうか?
(追記)
こうした考察もあります。確かに「なるほど」と思いました。
(とじこみ付録:)MOTHER3やった人に10の質問
暇だったのでなんか作ってみました。MOTHER3コンテンツや、日記のネタなどにお使いください。報告やURLのリンク等はとくに必要ありませんが、もし必要ならば http://moshiyoru.michikusa.jp/mother/mother3/tips.html#8 にどうぞ。
ご利用の場合は、「MOTHER3ネタバレです注意!!」みたいな注意書きがあるとなお良いと思われます。
■ MOTHER3やった人に10の質問 ■
◇今の時期に、「バトン」ではなく「質問」です。
まわす人、などは考えず、とりあえず気軽にお答えください。
◆MOTHER3をプレイしたきっかけって何でしたか?
◆プレイする前、どんなゲームだと想像してたか、おぼえてます?
◆はじめてクリアしたあとの感想はどうでした?
◆好きな(心に残った?)主人公を教えてください。(複数回答可)
◆好きな脇役や敵キャラクターなども、いたら教えてほしいです。
(複数回答可)
◆あ、ついでに、好きなBGMもお願いします。(複数回答可)
◆いちばん印象深かった章って、何章でした?(複数回答可……)
◆……そういえば、前作(「MOTHER」「MOTHER2ギーグの逆襲」)は
プレイしましたか。
◆2周目や3週目ってやりました?(やってます?)
◆ここまで振り返ってみて、MOTHER3は、あなたにとって
どんなゲームだと思いますか?
◆ご回答ありがとうございました。おきをつけていってらっしゃい。
つぎにあう、カエルによろしくね。
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